SSブログ

わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です [statement]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

ドミ通ブログ:So-net blog

「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」マルコ福音書9:33~50
「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」ルカ福音書9:46~50

人間の曲がった競争心・嫉妬心といったものが、教会の健全な成長・御国の拡張の障壁となることをイエス様は見て取っておられたと言うべきではないでしょうか。

今日、神様はご自身の教会に多様性を持つことを認め、様々な幾多の教団・教派の存在することを許容しておられます。しかも、その幾多の教団・教派にキリストの御名を冠することを許しておられます。

同時に、毒麦の譬えを以て、神の教会の中に「悪魔の子どもたち」が蒔かれることも警告されていますが、『毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい』とも命じられました。(マタイ福音書13:24~30、36~43)

あくまでも、主の関心事は「良い種」(=御国の子どもたち)にあり、過って「良い麦」を抜き取ってしまうことを憂慮しておられます。

私たちは、教会の純粋性の保護、異端的教理からの護教などの強調の余り、キリストの御名が冠されている隣の教会や主が愛し受け入れておられる兄弟に対して、あまりにも軽率に異端疑惑を浴びせかけたり、そうまでいかないにしても殊更に敵視したりする傾向が無いでしょうか?

ドミニオン通信の編集方針は、兄弟として愛するがゆえ、また主の教会の建徳の為、誤りは誤りであると指摘する一方、主の寛容・命令に従って、軽率な異端宣告・断罪は控えてきましたし、今後もこの基本方針に変更はありません。

Trial and Triumph: Stories from Church History

Trial and Triumph: Stories from Church History

  • 作者: Richard M. Hannula
  • 出版社/メーカー: Canon Pr
  • 発売日: 1999/07/15
  • メディア: ペーパーバック

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ


nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 6

Simon Barjona

はじめまして。
一つおうかがいしてもよろしいでしょうか?
>ドミニオン通信の編集方針は、兄弟として愛するがゆえ、また主の教会の建徳の為、誤りは誤りであると指摘する一方、主の寛容・命令に従って、軽率な異端宣告・断罪は控えてきましたし、今後もこの基本方針に変更はありません。
御方針に概ね同意致しますが、「誤り」と「異端」はどこで線引きするのでしょうか?「誤り」に寛容すぎると「異端」に荒らされ放題になることを強く懸念致します。
差し支えなければ御教示下さいませ。

by Simon Barjona (2009-01-07 18:52) 

inri7000

Simon Barjonaさん

はじめまして。
コメントありがとうございます。

「誤り」と「異端」の線引きについてですが、
私としては以下のような枠組みで考えております。

まずキリスト教の「異端」であるかどうかについては、以下の3つの基本的な信仰告白を信認するかどうかにかかわることと考えています。
1)三位一体の神を信ずる
2)信仰による義認を信じる
3)聖書は神のみ言葉であると信じる
(上記3要件を満たすなら、キリストの贖罪も信認すると判断します)

ただし、ここではキリスト教の「異端」か否かの判断材料としての要件なので、これらに真っ向から反対するのではなく、そこまでの確信に至ることができない状態の方は、未信者あるいは求道者ということになると思います。
また、これらの信仰告白を持つ信者の方がこれらの信仰告白を持つ教会で受洗し、かつその子弟に上記の信仰告白無しに小児洗礼を受けさせ、その教会の教会員となることも「正統」であると考えますが、逆に小児洗礼を認めない教会であっても「異端」とは考えません。

「誤り」というときには、上記のような基本信条に係るようなことではなく、もっと広範囲なことを想定しております。

例1)所謂「カルヴァン主義の5特質」については、概ね「正しい」と考え、アルミニウス主義の反論は大筋「誤って」いると考えますが、「異端」とは考えていません。兄弟と考えています。

例2)カルケドン信条に採択されたとおり、イエス・キリストは神性と人性の二本性を持つことは「正しい」と考えますが、マリアの称号を「キリストの母」としたネストリウスを追放し、称号を「神の母」としたのは当時の教会の「やり過ぎ」と思えるところもあります。

例3)inri7000は、「千年王国後再臨説」を「正しい」と考え、「無千年王国説」及び「千年王国前再臨説」は「誤り」と考えていますが、どちらも「正統」の範疇と考えております。

その他、聖書解釈やその適用について、広く主張されているが「誤り」と思われることも多々ありますが、「異端」としなければならないケースは前述の基本的な信仰告白とぶれない限りは、そう多くはないと考えています。

説明が下手ですが、ニュアンスは伝わりますか?
by inri7000 (2009-01-10 08:47) 

inri7000

補足ですが、先に挙げた基本的な信仰告白において一致できるならば、小さな教義上の違いはあっても共に主の為に働いたり、交わりを持ったりできると考えます。むしろそうすべきであると主が命じておられるのではないかと考えています。例えば、「わたしがあなたがを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ福音書13:34-35)の命令を受けていることと、教会の多様化を主が許容されている摂理的な導きは無関係ではないと考えているからです。いかがでしょうか?

ところで、Simon Barjonaさんが懸念しておられるのは、例えばどのようなケースですか?
by inri7000 (2009-01-10 16:09) 

Simon Barjona

御回答ありがとうございました。確認のため少々お時間を頂戴致しました。
1)まず、聖書を誤りなき神の言葉として信じない教会・公的にそれを宣言する教役者は異端宣告してよろしいのでしょうか?
2)ペラギウス、マルキオン、サベリウス・・・歴史的に教会が異端として斥けてきたこれらの「教え」を教義としていると判断される教会がありますが如何でしょうか。
3)三位一体・信仰義認・聖書(原典)無謬説。これらを標榜していても、例えば、カルト化している教会や、生肉・生魚・生卵を食することを禁じる教会、クリスチャンであってもなくても全人類は救われる、と説く(「信仰」義認ではなかったのですか?)教役者・・・これらは「誤り」として許容範囲なのでしょうか?
恐れ入りますが引き続きお導き下さいませ。
by Simon Barjona (2009-01-30 21:30) 

Simon Barjona

その後コメントを頂けておりませんが、キリスト教会(少なくとも日本の)はもう滅茶苦茶になっています。カルトや犯罪の横行がとどまることを知りません。さらには、超教派団体が公然とキリスト教信仰否定を宣言し、それに対して誰も何も言いません。何か言えば逆に異端宣言され、教会を追放されるのが現状です。「兄弟だから愛し合いなさい、赦し合いなさい。」ですか?この状況に眼を瞑り、何も発言しないことが建徳になるのですか?
ドミニオン通信の御方針を明示して下さい。
by Simon Barjona (2009-10-08 10:55) 

村ちゃん

アーメン。
by 村ちゃん (2020-12-28 13:21) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

-|民数記6章24-26節 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。